2019年11月18日月曜日

影絵①

自分にとってはなんとも面白く心地よい。そこに作為はなく,その時の偶然による影絵である。暖かく,特に背中が心地よく,申し訳ないぐらいありがたい。

光を受けて①

光を集めるものとしての美しさがそこにある。その形態に美しさを感じることは良いことなのか悪いことなのか。悪いはずがない。しかしながら,やや疲れ気味の心にはやけにしみるものがある。晴れ渡った秋のやや西に傾いた太陽の光線を受けて,そして輝き渡るその形はいったい何を意味しているのか。

2019年11月12日火曜日

大江町歴史民俗資料館のスキー板が取り付けられた台車

一見素朴な形であるが,スキー板の底には鉄板も取り付けられた,おそらく機能的な台車であったように思われる。何の運搬に使用されていたのかは不明であるが,ハンドル部の高さはおおよそ700㎜弱であり,当時の平均身長を想像すると,大人でも無理なく推すことはできそうであるが,やや低いようにも思われる。底板も曲面を示し,側板に至っては遊び心からなのか,それともなんらかの合理性を示すものなのか,階段型の雲形を示している。3D化はできていないが,スーパーのカートの手前の小物置きのようなパーツもあり,見た目の素朴さ以上の機能があり,有効に日常において使用されていたのかもしれない。

2019年11月11日月曜日

山形県大江町歴史民俗資料館の箕(おもて)

木積の箕と比較するとき,そのゴザ目の横方向の周期は明らかに短いようにように思われる。木積の̪シノダケの弾性を大胆に利用するタイプとは異なるように感じられる。実際に曲げてみたいものだが,おそらく壊してしまう。アクドの高さも低く,曲げにくさへの配慮の一つとも言えそうな横材の表裏の入れ替えも見られない。つまり,このゴザ箕の2Dから3Dへのトランスフォーメーションにおいて,木積ほどの形状全体での曲げエネルギーは必要としないのかもしれない。それにしては,ミサキの気持ちの良いほどまでの張り具合はどんなものだろうか?これもまた元気な類例を探し出し,ちょっかいを出してみたいものだ。

山形県中山町歴史民俗資料館民具館の蓑

一度現物を骨董シャンボリー(?)で目にした記憶がある。蓑とのことだが単なる蓑とは思えない。この美意識はいったい何なのか?なぜこのパターンを選択したのか?その形の根底にあるものは何なのか?わからないことばかりである。ただ言えることは,そこにこれを作り,鑑賞し,使う(?)ことでの正の情動があったものと考えざるを得ない。他地域との類例を探し,比較しなければならない。

山形県中山町歴史民俗資料館民具館の木の臼

この竪臼は元祖的な形状をしていた。やや軋む廊下の奥に見える所蔵品に期待を持ちつつ,そのエリアに入ると,右手に大名籠,正面には大きな矢羽根のような板絵,そして左側には大空間ともいえる大きな部屋に明り取り以外のすべての面を民具が覆いつくしている。その空間の中央部には累々と積まれた民具の山があり,その曼荼羅な空間を外界と区切る壁には魅力的な蓑が陳列する。動かぬ昔の装束の4人家族以外は誰もいない。日中であり,暗くもないのだが,そこの空気は民具の意とともに静寂である。なんという存在感であろう。その中で,この竪臼は身近にいた。臼の内部の形状も良く見える。どこかで見た形だ。いまどきの炊飯器の内釜の形とよく似ている。これで何を搗いていただのだろうか。どう搗いていたのだろうか。背中側のマネキンのお父さんが答えてくれそうで怖い。

2019年3月19日火曜日

草がわき出した庭の中で

 

なんておだやかな日差しであろうか。なかなか得がたい一日である。60になり痛風にもなり、生きてきた感がある。
今は痛みもかなり収まり、悲壮感もなくなった。小鳥も元気に泣き叫び、ヘリも上空をまっすぐに東京方面に飛んでゆく。
先ほどまで足元で回遊していた小さなハチは何処に行ったのだろうか。ただの手を入れていない自分の庭だが、なんだかありがたい。おだやかである。


2019年3月5日火曜日

穏やかな形



なんとも穏やかな時間である。そこにある人とものが何の違和感もなく存在している。どの形からも不自然なものは感じられない。すべてが穏やかであるように感じられてしまう。こんな時間が本当にあるんだ,と勝手に感激する。


お賽銭箱から上を見上げると天空の龍が睨みを利かしている。見慣れた形ではあるが,やはり圧巻としか言いようがない。自分は彫れない。理屈抜きでワクワクしてくる。

2019年2月25日月曜日

つらなる輝き

かつて樹木が果たしていた光の輝きは今はつらなるビニールの反射に置き換わっている。これもこれで不謹慎なのかもしれないが美しいものと感じてします。かつての雑木によって覆われていたこの穏やかな丘陵は、今は人工物におおわれ人間の都合とともに時間を過ごしている。それが悪なのか善なのかなんて分かるわけがない。自分にとってはどちらも何か美しさを感じてしまう。

人の手による自然/自然の中の人工/人工による自然の変質?

なにげない郊外の景色であるが,なんとも穏やかで懐かしくもあり一見そこに自然があると喜んでしまうが,冷静に考えると自然なんてどこにもない。すべては人の手により開墾され,変質し,そこに自然はない。でも,なんともおだやかである。人のエゴなのか。生きるものの本質なのか。意味もわからないまま正午過ぎてもまだ陽光の強さが心地よい午後の一時である。このあと,手前のアスファルトから向こうの橋を渡り,この地域の鎮守の杜を下から拝みながらさらに写真奥に車を走らせてみた。ちょっとして冒険,日常からの逃避である。

2019年2月15日金曜日

吉田神社の節分の夜店


正直なところ何と説明して良いのかわからないが,なんとも懐かしく甘酸っぱくも悲しくもある。まだこういう風景が残っていたのだ。


肖像権を気にしつつも何とも調和の取れた形態にやはり心を動かされてしまう。人の体幹,布の重なり,炎の立ち上がりとその光に照らされた面の重なりには,これまた理屈抜きで感動してしまう。